エッセイ

エッセイの目的
囲碁ファンの皆様には、囲碁に関する生涯忘れ得ない思い出、囲碁に関する思いなど、自分の心の中にしまっておくだけでは何か心残りなるようなことがあると思います。是非、囲碁の普及、心残りの解消、自分史の記念にエッセイとして記録に留め、ホームページに載させていただきたいと思います。

応募要領
原稿枚数----400字詰め原稿用紙3、4枚の長さで結構です。
提出方法----電子メールで、宛てに「ファイル添付」で送ってください。あるいは、下記、事務局まで郵便でお送りください。
〒239-0841 横須賀市野比2-35-3
横須賀囲碁連盟HP編集委員会事務局
内容----囲碁に関する思い出、囲碁に関する思いなど囲碁に関連しているものであれば何でも結構です。
執筆者名----実名/ペンネーム、どちらでも結構です。

目次

「碁会所へ行こう」----(カルーチャ石黒"new"
「一局の経験」----(白石 透
「まちぼうけ」----(白石 透
「しらとりの譜」----(白石 透
「碁会所へ行こう」----(カルーチャ石黒

事例に学ぶ大会の心得----(カルーチャ石黒
囲碁と将棋----(カルーチャ石黒
序盤に難あり----(カルーチャ石黒
勝負は精神力で----(カルーチャ石黒
「囲碁に何かが」----(ゆめおいびと

碁会所へ行こう経験」----(カルチャー石黒"new"
碁会所はその気になってさがせば結構、会社や自宅の近くにある。15人程度規模から100人以上まで様々であるが私の行きつけは20〜30人規模で土、日を主体で通っている。囲碁好きでも「一人で碁会所はチョット」という人も多い。仲間内で誘い合わせて行けても一人では碁会所へ行く気がしないらしい。
確かに初めは敷居が高いのも事実で特に仲間内で打っている小規模なところはなかなか馴染めない。最初は、席主と「初めてですが・・・・」「どれくらいお打ちで・・・」「○○程度です」それでは・・・△△さん、打って見て」で始まる。運悪く、席主が手合い中だと小1時間は無視される場合もある。この時間に耐えられるか、どうかが碁会所へ通うことになるか?二度と行かなくなるかの境目である。
大きな碁会所では専用の受付カウンタがあって事務員が仕切ってくれるので安心である。人間関係のわずらわしい人は、なるべく大きな碁会所で1局毎の一期一会を楽しまれたほうが良い。
手軽で味のあるのは小規模なところだがどうして顔ぶれが決まってくるので人間関係も派生する。席主自身が客相手におおわらわの場合もある。この席主には二通りある。自分自身が結構打てるタイプと好きだがあまり強くないタイプがある。打てるタイプは客を客と思わないケースがあるがあまり気にしてはいけない。指導をしているという心理がどこかで出るからでしょう。
会社近くだと仲間を誘って「チョット碁会所」もあるが自宅近くだと、やはり都度の対戦相手を紹介してもらう必要があるから最初は猫をかぶっていた方が何かと無難である。数回通って漸く馴染みとなり、席主の世話を受けず相手を探して打てるようになるとお仲間入りである。お仲間として盤上盤外、チョウチョウハッシのやり取りが楽しめるようになる。しかしながら常に節度が必要である。 上手は自慢せず、下手は謙虚に・・・が長いお付き合いに向けての最高のノウハウでしょう。
30、40(人生には碁よりもっと大切なものが有るのでは?)は慾に迷い70、80(何をやっても身体も気持ちもヨイヨイ)は病に取り付かれる。遊ぶなら50、60(出世も人生の限界も見えてきた。自分なりに悟りの心境)がチャンスだが50代はサラリーマンなら会社での最後の仕上げもあるのでやはり60代が囲碁三昧の最高の時期。60才でもう1子強くなる気概で碁会所へ行こう!!が私の提案。


一局の経験----(白石 透
我が郷土の先輩でもある作家の堀田善衛によればベネチアは無数の杭の上に教会もビルも道路も構築されているとのことである。そのためアルプスの斜面はもとより固い土地イタリア、アドリア海、エーゲ海周辺と半島、島々のありとあらゆる森林は杭にされベニスの海に打ち込まれたそうだ。密に打ち込まれた杭は海水の浸透もゆるさず永遠の寿命があるらしいが鉄筋コンクリートでは30年程で寿命が来るらしい。さて、わが頭に打ち込まれた一局毎の経験はこの杭のごとくでありたいものである。密なるところはなかなかであるが、半端な理解部分はすぐに腐食して行く。一局毎の新たな知見の影で過去の記憶が少しずつ崩壊しているような気がする。あらたに獲得したものと失うものの差異が棋力の上下と見て棋力維持・向上のためセッセと碁会所通いやマニュアル勉強を私は続けているのである。囲碁は理屈を実戦に生かさねば勝てない。ギリギリの緊張感のある一局が1本の杭なのであるが永遠の寿命とはいいがたく、私のケースではせいぜいで3日程度であろうか。

まちぼうけ----白石 透
某月某日 夏のはじまりの頃、家の近くの某海岸を逍遥していると突然、海面がザワザワと波立ち浜辺にキラキラとしたものが打ち上げられたのでした。すばやく駆けよってみれば適齢期のシコ鰯が5〜6匹ピチピチ元気に跳ねているではないか。我輩はズボンの裾の乱れも濡れも気にせずに次の波が来る間に素早くバチャバチャと回収したのであるがこの間約30秒程度の速攻であろうか。推測するにワカシとかボラ等に追われたシコが逃げ場を失い浜に上げられたものと思われる。シコシコいやシメシメ、実に新鮮で美味そうである。酒の肴にサシミに作れば上等である。しかしながら5〜6匹ではいかにもみみっちい。すくなくとも50〜60匹は欲しいところで、待てば海路の日よりもあるゾとしばし待つことにした。ところが、その後 待てども暮らせどもピチピチが無い。あの興奮のピチピチをもう一度・・・我慢の足りない乞食は貰いが少ないのたとえもあるゾ。もう暫く、もう暫くと待っているうちに日は傾き始め、ダンダン自分が惨めに思えてきて漸く諦めたのでした。ふと足元を見ると煮干のように干上がった小魚が5〜6匹むなしく転がっているのでした。

教訓:
 .Ε汽が木の根っこにぶつかった話は実話だったと証明できた???
 ■毅杏い鯆匹Δ發里錬吃い眛世
 B臉仭世い魯丱の見本(囲碁的教訓)


「しらとりの譜」----(
白石 透
事例に学ぶ大会の心得
1・時計
  大会において時計使用は「使ってもよい。ではなく使わなければならない」と心得よ。使うのは不自然だと思っているとこのやり取りで屈託が生じ不覚をとる。
ケース1>(市民大会で)時計の数が不足し、上級クラスのみが時計でうった。
中盤で先方の時計がきれた。先方より「時計が切れたので、これからは時計なしで打ちましょう」と提案があった。小生は「ルールですから私の勝ちです。」といったところ「途中で押し忘れもあった。また本来ならアンタは形勢不利だから投げるべきでしょう」。と言い返された。局面は大フリ変り(この判断で相手は長時間考慮し時間がなくなった。)で周囲はまだ細かいとみていたし小生も「やや不利だがまだやれる。」と判断していた。結局、周囲のとりなしで小生の勝ちになったが後味が悪くなった。先方のいいたい気持ちはわかるが時計も勝負の内と心得、自己管理してください。

ケース2>最後の寄せ合いになり先方の針が上がり始めた。小生はまだ8分程度のこっていたので「身内の大会だし先方の打った瞬間打ち返すのも失礼だな」とおもい時計を時々押さずにゆうゆうとやっていた。最後のコウで取ったり取られたりしていた所周囲から「時計がきれました」の声かかりが先方の時計がきれたと思っていたら自分の時計が落ちていた。格好をつけてはいけない。赤い針は3分で落ちますよ!(小生、5分は持つと勘違いしていた。)終盤は義理人情を投げ捨てて非情に時計をタタケ・タタケ

 2・寄せ
最後の1目の寄せを慎重に打て!試合になると案外中押しか2、3目の勝負になる。案外、打っている最中は5、6目の判断が出来ていない。従って勝負は最後の最後まで逆転の可能性を持っている。最後バラバラとダメを詰めるがこの過程の1目をばかにしてはいけない。打ち欠くべきは打ち欠き、コウを争うべきは争い最後まで手順をつくすことが大事。最近、決勝戦で2回続けて最後の1手で打ち欠く手を打たず、持碁負け、2目負けを喫した。終局近くになると時計の残り時間に加え周囲がガヤガヤして気分が散漫になるが最後の1目まで悠々、且つ淡淡と最善をつくすことが大事。大試合では双方固く打つ。従ってあまり悪い手を打っていなければ心理とは別に、局面は案外細かいはずである。

3・逆転
ポカは論外だが逆転のケースはある。逆転は偶然ではなく必ず逆転に至る背景がある。勝負が拮抗し「やや有利だが・・・確信が持てない」この心理状態になったら要注意である。勝手読みの瞬間があせりと共に刻々と近くなっていると自覚すべき。一手毎に先方の打つ手を、注意深く意味する所を考えていないと一発で逆転をくらう。実際はやや有望から急転直下勝負が決まる状態であるが・・・ここで大騒ぎをする人もたまにはいるが振り返れば欲の一手を打ったのは自分であるから、愚痴りたい気持ちは
分るが我慢すべきです。                       


「碁会所へ行こう」----(カルーチャ石黒"new"

100人以上まで様々であるが私の行きつけは20〜30人規模で土、日を主体で通っている。
囲碁好きでも「一人で碁会所はチョット」という人も多い。仲間内で誘い合わせて行けても一人では碁会所へ行く気がしないらしい。
確かに初めは敷居が高いのも事実で特に仲間内で打っている小規模なところはなかなか馴染めない。
最初は、席主と「初めてですが・・・・」「どれくらいお打ちで・・・」「○○程度です」それでは・・・△△さん、打って見て」で始まる。運悪く、席主が手合い中だと小1時間は無視される場合もある。この時間に耐えられるか、どうかが碁会所へ通うことになるか?
二度と行かなくなるかの境目である。大きな碁会所では専用の受付カウンタがあって事務員が仕切ってくれるので安心である。人間関係のわずらわしい人は、なるべく大きな碁会所で1局毎の一期一会を楽しまれたほうが良い。
手軽で味のあるのは小規模なところだがどうして顔ぶれが決まってくるので人間関係も派生する。
席主自身が客相手におおわらわの場合もある。この席主には二通りある。自分自身が結構打てるタイプと好きだがあまり強くないタイプがある。打てるタイプは客を客と思わないケースがあるがあまり気にしてはいけない。指導をしているという心理がどこかで出るからでしょう。
会社近くだと仲間を誘って「チョット碁会所」もあるが自宅近くだと、やはり都度の対戦相手を紹介してもらう必要があるから最初は猫をかぶっていた方が何かと無難である。
数回通って漸く馴染みとなり、席主の世話を受けず相手を探して打てるようになるとお仲間入りである。お仲間として盤上盤外、チョウチョウハッシのやり取りが楽しめるように
なる。しかしながら常に節度が必要である。 上手は自慢せず、下手は謙虚に・・・が長いお付き合いに向けての最高のノウハウでしょう。
 30,40(人生には碁よりもっと大切なものが有るのでは?)は慾に迷い70、80(何をやっても身体も気持ちもヨイヨイ)は病に取り付かれる。遊ぶなら50,60(出世も人生の限界も見えてきた。自分なりに悟りの心境)がチャンスだが50代はサラリーマンなら会社での最後の仕上げもあるのでやはり60代が囲碁三昧の最高の時期。
 60才でもう1子強くなる気概で碁会所へ行こう!!が私の提案


事例に学ぶ大会の心得----(カルーチャ石黒
1.時計
大会において時計使用は「使ってもよい。ではなく使わなければならない」と心得よ。使うのは不自然だと思っているとこのやり取りで屈託が生じ不覚をとる。
ケース1:  
市民囲碁大会で時計の数が不足し、上級クラスのみが時計で打った。中盤で先方の時計がきれた。先方より「時計が切れたので、これからは時計なしで打ちましょう」と提案があった。小生は「ルールですから私の勝ちです。」といったところ「途中で押し忘れもあった。また本来ならアンタは形勢不利だから投げるべきでしょう」と言い返された。局面は大フリ変り(この判断で相手は長時間考慮し時間がなくなった。)で周囲はまだ細かいとみていたし小生も「やや不利だがまだやれる。」と判断していた。結局、周囲のとりなしで小生の勝ちになったが後味が悪くなった。先方のいいたい気持ちはわかるが時計も勝負の内と心得、自己管理してください。
ケース2:
最後の寄せ合いになり先方の針が上がり始めた。小生はまだ8分程度のこっていたので「身内の大会だし先方の打った瞬間打ち返すのも失礼だな」と思い時計を時々押さずにゆうゆうとやっていた。最後のコウで取ったり取られたりしていた所周囲から「時計が切れました」の声がかかり先方の時計が切れたと思っていたら自分の時計が落ちていた。格好をつけてはいけない。赤い針は3分で落ちますよ!(小生、5分は持つと勘違いしていた。)終盤は義理人情を投げ捨てて非情に時計をタタケ・タタケ。

2.寄せ
最後の1目の寄せを慎重に打て!試合になると案外中押しか2、3目の勝負になる。案外、打っている最中は5、6目の判断が出来ていない。従って勝負は最後の最後まで逆転の可能性を持っている。最後バラバラとダメを詰めるがこの過程の1目をばかにしてはいけない。打ち欠くべきは打ち欠き、コウを争うべきは争い最後まで手順をつくすことが大事。最近、決勝戦で2回続けて最後の1手で打ち欠く手を打たず、持碁負け、2目負けを喫した。終局近くになると時計の残り時間に加え周囲がガヤガヤして気分が散漫になるが最後の1目まで悠々、且つ淡淡と最善をつくすことが大事。大試合では双方固く打つ。従ってあまり悪い手を打っていなければ心理とは別に、局面は案外細かいはずである。

3・逆転
ポカは論外だが逆転のケースはある。逆転は偶然ではなく必ず逆転に至る背景がある。勝負が拮抗し「やや有利だが・・・確信が持てない」この心理状態になったら要注意である。勝手読みの瞬間があせりと共に刻々と近くなっていると自覚すべき。一手毎に先方の打つ手を、注意深く意味する所を考えていないと一発で逆転をくらう。実際はやや有望から急転直下勝負が決まる状態であるが・・・ここで大騒ぎをする人もたまにはいるが振り返れば欲の一手を打ったのは自分であるから、愚痴りたい気持ちは分るが我慢すべきです。 

囲碁と将棋----(カルーチャ石黒
囲碁と将棋の差異は何か?愚考して見た。
(1)始まり
 将棋は幕が開くとオールスター全員が舞台に出て、東西に整列し以後、整然と戦いが始まる。
戦い開始直後が一番登場人物(駒)が多い。
100%からの開始
 一方、囲碁は幕が開いても舞台には誰もいない。ただ空漠としたフィールドがあるのみである。
黒子、白子が交互に舞台に登場して、何やらマスゲームのようなことを行うのである。
ゼロからの開始(下手打ちの置碁は例外)
(2)駒と石

 将棋の駒は駒自体に各々異なった機能を持っている。王将は王将であり、歩は歩である。格に応じて駒の機能/大きさが異なる。しかも丁寧に表も裏にも字が書いてある。将棋というゲームから離れても駒自体がひとつの玩具であり、美術品となりうるのである。旅館の床の間などに王将や角行が座布団に鎮座している。駒の働きが実に明快
 碁石はどうか?もともとが石でなくても○でなくとも適当にテリトリーの先着の目印でよいのであるから、実に素朴であり表にも裏にも字は書いてない。石固有の機能がないのである。実に抽象的
(3)戦い
 将棋の戦いは正々堂々の布陣からまず歩兵の接触があり、銀将が前線に踊り出るとともに金将が王将の脇をかためる。スターの飛車、角行が中原を闊歩し大暴れする。誰でもが捕虜になればサッサと裏切る。敵陣に切り込めばひっくりかえるほど出世する。出世できないのはオーナの王将と番頭の金将のみである。敵の王将をブッ殺すことが最終目的であり、なりふりかまわない。始まりと終わりがはっきりしている。

 
実に人間くさい
したがって「銀が泣いている」とか「俺は持ちたい歩の心」とか「吹けば飛ぶような将棋の駒」のような流行り歌等のセリフも出てくるのでしょう。
 碁はどうか?せっせと草原(共通のフィールド)で自分の地所獲得に邁進する。よいところから順番に囲いあう訳である。他人が自分の想定テリトリーに踏み込んだ時や、もっと地所が欲しくなったとき戦いが始まる。より効率的に地所を獲得すれば勝ちであり戦いや局部の殺し合いもその手段に過ぎない。確保すべき地所がなくなった時点で終局である。したがって始まりと終わりが実に抽象的である。

 
実に実に抽象的
碁には19路盤や13路盤があるがごとく適当にフィールドを切り取って戦いの場にしている。

 
実に実に実に抽象的
(4)根本的な相違
*新定義:将棋は人間が考案し囲碁は神様が考案したゲームである。????
*将棋:王将(親分)が殺されたらおしまい駒の役割、機能(身分)が最初から決まっている
   印象:天、地、人:人の争い人間の遊び
*囲碁:争う地所が無くなったらおしまい石の役割、機能は打ち手が決める
   
印象:天、地、人:天の争い神様の暇つぶしの遊び、人間が神様・仙人の遊びを盗んできたゲーム

序盤に難あり----(カルーチャ石黒
通勤電車のいつも見慣れている車窓の風景にも「アレ!」と思うことに出くわす。いつもと違った座席に座ったり、あるいはその日の天候など微妙な環境の変化が視点とか心理状態に影響を与え、普段とは違ったところに目や心が行くのだろう。その結果、ボケーと流す一瞬の車窓にも思わぬところに公園、パチンコ屋あるいは居酒屋があることを都度、発見するのである。(蛇足:京浜急行沿いは実にお寺がおおいことも再発見する)

囲碁においても似たような事が有る。普段、意識せずにスラスラ打っている定石が「チョット違うかな?」と感じる事が有る。何かがチラチラと見え、何かを感じ始めると後はお決まりのメロメロである。強敵との試合、あるいはプロとの指導碁など非常に緊張した時にこれが出る。「こう打ったらこうくるのでは…・あれ!この定石はどうだったかな?」など考えはじめ通常、無意識に打っている定石を自らひねくって序盤、早々ミスしてしまうのである。

何故か? 「相手は強敵だ。大事に打たないと勝てないゾ!一手毎によく読んで行こう」というガンバリ心が普段よりも強く働くからだろうか?その結果、今まで見えなかった手がマジックアイのように妖しく浮かびあがってくるのである。 強敵に出会った瞬間、チョット真面目になったら定石の周りの違った風景が見えてきて「アアどうしよう」となるである。 「序盤はできるだけ素直に簡単に打たせて頂く」これが最近の私の課題であるが「さて、中盤もどうしたら良いものやら…」。


勝負は精神力で----(カルーチャ石黒
個人的経験によれば勝負(私の場合は囲碁)は、その日の気分で結果に大きく作用する。「躁」では、あるところまで行けるが、優勝はまず無理である。毛利の外交僧、エケイの 「かのものは、やがて高転びに、転び候」の信長をやるからである。調子に乗って、思わぬところで頓死のスジにはまるのである。「鬱」では、どうか?「鬱」でもよいが、心に屈託があっては一勝もおぼつかない。仕事の心残り、人間関係のちょっとした悩みが一番いけない。このような気分では絶対に集中力の発揮ができない。では、どのような気分が一番良いか?それは沈んだ気分である。沈み落ち着いた気分である。天候でいえば、薄曇で気温21℃程度、若干の微風ありであろうか。しかしながらこの気分に持ちこみ、且つ日中維持することは至難である。

まず、未明に家人に気取られず家をでることが望ましい。「こんな日に、碁なんか…・」愚妻のつぶやきには耳をかしてはならない。財布には最低1万8千円程度必要で ある。これだけあれば、 大会後のチョット一杯にも柔軟に対応できる。軍資金に不足があっては戦争に勝てないことは、昔から自明である。この財源の確保は少なくとも前夜中に行う必要がある。朝、 「頂戴」では愚痴も一緒に頂戴する羽目となり心に屈託がのこる。 家を出て駅まで、知人と会わないことを祈るべきである。隣の奥さんに「ご主人、どちらへ」など声をかけられたら、その時点で優勝はまず あきらめたほうが良い。出あう、出あわないかは運というしか無い。 野良猫と出あってもよいが「あ、猫か」程度で軽く思念を打ち切った方がよい。「朝飯はチャーハンの残飯かな。何の因果で野良になったので あろうか」など、間違っても個人情報に踏みこんではいけない。まして「発情しているのだろうか」など、セクハラ的飛躍発想は禁物である。邪念があっては勝負に勝てぬ。 この時点で今日の勝負はニャンともならないことを心得るべきである。

かくのごとく多大な努力を払いつつ漸く試合場に赴くわけである。まずサッサと受付をすませ、一人ロビーで落ち着くことが大事であるが、時として寝てしまったり、事務局の 連絡を聞き漏らすことがあるので注意が必要である。頭への糖分補給のため試合10分前には砂糖入り缶コーヒを喫することも大事なノウハウ。さりげなく、視線を飛ばしてライバル 達を観察する。強敵は若い人である。年寄りの群れに紛れ込んだ彼らはかならず強い。もし不幸にして対戦の 羽目になったら、即、あきらめることが精神上良い。したがってアミダ抽選のときはなるべく離れたところを選択しなければならない。さて対戦相手がきまる。むっつりした奴はまず 強い。この場合、当方も負けずにむっつりしておくべきである。この時、「どちらへお勤めで…」とか「普段はどこでお打ち…」など間違っても お愛想など言うべきでない。ただ、ただ負けずにムッツリと…。嗚呼、私はかくのごとく慎重かつ繊細にふるまいつつも今だ優勝の美酒を味わったことが無く、もっぱら我が精神力の 弱さを嘆いていたのであったが…。なんと、どうしたことか。2003/5月、某本社囲碁部連合の湯河原囲碁合宿で優勝(スイス方式ハンディ戦:8 勝1敗)し、念願の某社内6段に昇段したのでした。

「囲碁に何かが」----ゆめおいびと
韓国、台湾、中国では、碁に強い子は頭のいい子、碁を習うと頭が良くなると思われているようですね。日本では、子供に碁に熱中されると勉強 しなくなってしまうと思われているところがあります。何を隠そう、囲碁大スキなこの私も、息子には一切碁は教えることもなく、暗黙のうちに野球や、剣道などの子供クラブに 通わせていました。囲碁に熱中し「落ちこぼれ」になるのを心配していたからです。学生時代に、囲碁部の先輩後輩部員の何人かが留年するほど熱中していたのを見ていたからでも あります。

最近のオフィスの昼休みでは、碁を打つなどは何か後ろめたい気持ちにさせられるようですね。それ以前に、囲碁を知っている人が圧倒的に減っています。特に、若者達は碁どころか、連れ立って食事に行くことも少なくなって、コンビニからオニギリやパンを買って来て食べながらパソコンに向かってインターネット・サーフィンしたり、あるいはパソコンゲームに興じたりしているようです。デフレ不況のリストラ時代ですので、若者達は自分の力をつけるのに趣味や囲碁どころの話ではないのでは。一方、囲碁の大会、碁会所に足を運ぶと、圧倒的に白髪混じりのベテランが多く、若干名の、平安時代の囲碁をたしなむ宮廷女官の末裔の美しいレイディが参加されているのは嬉しい限りですね。まして、子供大会でない限り、小中高生の参加はほとんどありません。

ところが、最近、地元出身総理の小泉さんの登場に見られるように、変人が活躍する時代が来たようですね。護送船団、金太郎飴は、あいまいな横並びの日本人を生み出すキーワードになっています。ブランドの小中高大出を競うことが日本をダメにしてしまったことに、ようやく日本人は気がつき始めました。子供を虐待したり、誘拐したり、すぐにキレてしまうような若者たちが多く出現することはかつてなかったように思いますが、これらも護送船団、金太郎飴の結果かも、あるいは、彼等の多様性を理解して上げられなかった結果かも。堺屋太一さんが言うように、今や、会社人間ではなく、職域人間が活躍することができる時代になってきたようです。いい仕事をするには、職場以外でいろいろな人と交流することによって刺激を受けることが必要になってきました。

そこで囲碁の登場です。囲碁は、人間が生み出した最も単純なルールの最も奥の深いゲームです。「奥が深い」とは、多様な視点を持たないと勝てないゲームということは実感できますね。今、囲碁が、人との交流を通じて、多様な視点をもつ能力の訓練に役立つにちがいないと、「囲碁に何かが」期待されていると思うのは思い過ぎでしょうか。